日本の印章
律令制と印章制度の制定
西暦57年、光武帝より日本に「漢委(倭)奴国王」と陰刻された篆書による金印が贈られてから644年後の701年に「大化の改新」の功労者であった中臣鎌足の嫡子藤原不比等が中心となって大宝律令が制定されました。
その律令の中には公式令が設けられて、印章制度が規定され、天皇の掌握化に置かれました。この特色は全て鋳銅印で方印、陽文、朱文とされていますが、それらは隋や唐の印章制度に倣ったものでした。
中国は紀元前3世紀頃から印章の流行とともに印章制度の発展普及した国でした。しかも紀元後の2世紀後半には上質の紙が発明され、普及すると印章の役割はさらに重要視され、印泥・朱肉の出現とともに需要は急速に進展しました。
官印、私印の登場
日本では聖徳太子によって始められた遣隋使に続いて遣唐使が派遣され、中国制度に倣って印章制度は一層重視され、官印四種即ち印面には「天皇御璽」の内印と印面に「太政官印」の外印、それに政府各省並びに諸部局印の諸司印を地方諸国から中央政府に奉ずる公文書や貢物に押印する諸国印が規定されました。
その中で諸国印は国府の所在地に印鑰社(いんにゃくしゃ)を設置して、印鑰大明神と神格化して奉納され、丁重に用いられました。官印の大きさは内印が方三寸、外印が方二寸五分、諸司印が方二寸二分、諸国印が方二寸と規定されていました。
なお内印、外印、諸司印、諸国印の官印四種の他に郡印、郷印、国倉印、軍団印などの公印があり、ほかに寺社印などがありました。
奈良時代後期になると漢印にならって私印があらわれます。「続日本紀」によると758年、藤原仲麻呂が右大臣に任じられた時に天皇から恵美押勝という姓名を賜った際に「恵美家印」の使用を認められました。これが日本における私印のはじまりとされます。
花押(署名)の登場
印章から花押へ
平安時代(794年~1185年)になると私印の使用が多くなりますが、官印の諸国印が方二寸だったことからそれよりも小さいものとされました。また官印が方形印だったのに対し、円形印も流行し始めます。しかし特筆すべきなのは平安後期に「花押(かおう)」が印章に代わってくる事です。
花押は花のようにきれいに書かれた署名という意味ですが、平安時代は空海などの遣唐使によって草書や仮名が流行し、そのため女流文学者も多く登場しました。草書による名前が美的に表現された時代です。花押は鎌倉時代(1185年~1333年)まで続きます。
花押は書判(かきはん)とも呼ばれ、私文書ばかりでなく一様に使われたため、中世においては、判というと印判ではなくもっぱら書判のことを意味します。花押は中国では唐の時代から使われており、日本における花押の発達に多少の影響を及ぼしたと考えられています。唐から宋にかけて草書体による署名が流行し、これが花押と呼ばれました。押は署名のことで、花押とは前述のとおり、花のように美しく書かれた署名を意味します。
日本では、平安時代から室町時代にかけて草名体(そうみょうたい)という花押が普及しましたが、これは平安朝が草書と仮名の時代であったということに加えて、草書の方がきれいに見えるし、また真似しにくいということもあったのでしょう。
再び私印(印章)が用いられ始める
鎌倉時代になると栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)によって瞑想三昧を主題とする禅道が普及します。さらに宋の滅亡とともに渡来してきた禅僧によって南宋の水墨画などとともに中国文人の用いる印章ならびに風習が伝わってきました。この流れで禅院において再び私印が用いられることになります。
こののち、わが国における最初の蔵書印「金沢文庫」印、落款印も登場します。戦国時代になると印章は全盛期を迎えます。武家文書の中で印象を用いた文書は印判状と呼ばれました。
西国地方では公家の影響で花押の伝統が守られていましたが、織田信長の上洛とともに畿内でも文書に花押でなく印章が用いられるようになりました。信長の「天下布武」の印章は有名です。さらに豊臣秀吉の天下統一によってこの傾向は西国大名から九州にまで及びました。
三百年近く続いた江戸時代には印章は武士階級だけでなく庶民の間でも使用されるようになりました。明治維新によって、新政府は新たに官印制度を定めましたが、それは律令制度に倣ったもので、府、県にそれぞれ官印をつくらせました。官印の寸法も奈良時代の諸国印に倣い、それぞれ官職名を掘ることを命じました。
そして法律によって文書における私印の効力が認められた結果、欧米式の署名よりも印章を重視する傾向が定着し、現在にいたっています。
参考文献
印章の道 メソポタミアから日本へ
ハンコの文化史 古代ギリシャから現代日本まで